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第3話 右手の中に、止まった世界

last update Date de publication: 2026-09-12 21:21:47

第3話 右手の中に、止まった世界

 マンション十二階の窓から見下ろすと、正面玄関の前に立つ男の姿は小さく見えた。それでも白川恋には、苛立つたびに片足を揺らす癖も、安物の上着のポケットへ片手を突っ込む仕草も、呼び出しボタンを何度も押しながら周囲を見回す卑しい横顔も、嫌というほど見覚えがあった。

 水城拓斗で間違いなかった。

 管理用アプリに表示された防犯カメラの映像では、拓斗が玄関前で管理人へ食い下がっていた。音声までは聞こえないが、身振りを見れば、恋の知り合いだから中へ入れろと要求しているのだろう。

 間もなく、管理室から内線がかかってきた。

「白川様、正面玄関に水城拓斗様とおっしゃる男性が来られています。ご婚約者で、白川様から本日ここへ来るように言われたと話しているのですが、お通ししてよろしいでしょうか」

 恋はスマートフォンを握る右手に力を込めた。銀色の紋様が皮膚の奥でかすかに光り、その輝きを見た瞬間、凍りついた小屋で拓斗に蹴られたときの痛みが蘇った。

「その人は婚約者ではありません。半年前に別れた元交際相手で、今日は会う約束もしていません。先ほどから電話を拒否しているのに、勝手に押しかけてきたんです」

「そうでしたか。水城様は、白川様が病気で寝込んでいるかもしれない、自分が部屋まで確かめなければ危険だとおっしゃっていますが」

「私なら問題ありません。それから、私が今日この部屋を退去したことも、転居先も、絶対に伝えないでください。帰らずに居座るようなら、警察へ通報して構いません」

「承知しました。ご本人の許可がない以上、建物内へはお通ししません。白川様は、正面で水城様と顔を合わせないよう、裏手の搬出口をお使いになりますか?」

「お願いします。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「迷惑をかけているのは白川様ではありませんよ。念のため、警備員を一人向かわせます」

 電話を切ったあと、恋はもう一度窓の下を見た。

 管理人から入館を拒否されたらしい拓斗は、両手を広げて何かを訴えている。恋を心配する善良な恋人を演じているつもりなのだろうが、ときおり管理人へ向ける険しい顔には、恋の身を案じる気配など欠片もなかった。

「婚約者ですって? 私が死ぬまで結婚を考えようともしなかったあなたが、部屋へ入り込むためなら、平然とそんな嘘までつくのね」

 前世の拓斗は、恋の金と物資を奪うだけ奪い、最後には開け放たれた扉を閉めることさえ拒んだ。今すぐ下へ降り、その顔を正面から殴りつけたいほどの憎しみが、恋の胸を焼いている。

 けれど、今はまだ復讐の時ではなかった。

 今の拓斗は、前世で恋を殺した記憶を持っていない。罪を責めても理解されず、恋のほうが異常な女だと騒がれるだけだろう。ここで問題を起こして警察や会社に目をつけられれば、残された準備期間を無駄にしてしまう。

 三十日後に世界が凍り始めれば、金も家も食料もない拓斗は、生き残る場所を求めて必ず恋のもとへ来る。そのときこそ、前世で味わった絶望を返してやればよい。

「今はあなたに構っている時間はないわ。せいぜい私のいなくなった部屋を見上げて、いつまでも待っていなさい」

 恋はスーツケースを引き、警備員の案内で裏手の搬出口からマンションを出た。拓斗が正面玄関で騒いでいる間に迎えの車へ乗り込み、一度も振り返らずに新居へ向かう。

 家を売った判断は正しかった。

 旧宅を残していれば、拓斗は毎日のように押しかけ、隙を見つけて部屋へ入り込もうとしただろう。食品や防寒具を大量に買っていることを知られれば、前世と同じように、村田夫婦をはじめとする他人へ吹聴したに違いない。

 拓斗が知っている住所を捨てたことで、少なくとも今は、備蓄計画を隠したまま進められる。

 夕暮れを過ぎた頃、車は郊外にある新居へ到着した。

 元個人医院の独立型複合住宅は、照明の落ちた状態で見ると、昼間以上に古びて見えた。高い塀の奥に建つ灰色の建物は華やかさとは無縁だったが、恋には都心の高級マンションよりも頼もしく感じられた。

 鉄製の門を閉め、正面玄関、勝手口、地下搬入口のすべてに鍵をかける。備えつけの警備設備を作動させ、窓のカーテンを閉じてから、恋は各部屋を順番に見て回った。

 誰もいないと分かっていても、前世で大勢の人間が扉を破ってなだれ込んできた記憶が、何度も背後を振り返らせる。室内へ響く自分の足音にさえ体が強張り、地下室の鉄扉を閉め終えたところで、ようやく長く息を吐くことができた。

「ここには誰も入れない。今度こそ、私のものは私が守る」

 窓のない地下室には、古い事務机、書類棚、空の薬品保管庫が残されていた。分厚いコンクリート壁に囲まれているため、外部から中を覗かれる心配はない。

 恋は事務机の上へ、途中のコンビニで購入した品物を並べた。林檎、バナナ、ポテトチップス、氷の入ったカップ、熱いコーヒー、乾電池式の置き時計、小型の温度計である。

 右手を目の前へ持ち上げると、手のひらから手首に刻まれた銀色の紋様が、淡い光を放った。

 目覚めた直後から、この右手には説明しがたい感覚がある。手のひらの奥に、どこまでも続く暗い空間が隠されており、意識を向ければ触れられるような、不思議な感覚だった。

「私と一緒に前世から戻ってきたのなら、何ができて、何ができないのか、今のうちにすべて確かめさせてもらうわ」

 恋は林檎を右手で掴み、頭の中で収納したいと念じた。

 その瞬間、林檎の輪郭が銀色の光に包まれ、音もなく手の中から消えた。

 反射的に手のひらを裏返したものの、林檎は床へ落ちていない。目を閉じると、果ての見えない暗い空間が頭の奥へ浮かび上がり、その中に先ほどの林檎が、手にしていた角度のまま静止していることが分かった。

 空間の中を歩き回って探しているわけではない。それでも、何をどこへ収納したのかを、恋は自然に把握できた。

 林檎を取り出したいと考えながら右手を事務机へ置くと、銀色の光が指先から広がり、消えた林檎が机の上へ現れた。

「右手で触れることが、収納と取り出しの条件なのね」

 左手で林檎を持ち、同じように念じても何も起こらない。しかし、左手で持った林檎へ右手の指先を触れさせると、林檎は再び異空間へ消えた。

 恋は、地下室に残されていた事務机の側面へ右手を当てた。重量のある机も、収納を意識した途端に銀色の光へ包まれ、上に置かれていた品物だけを残して消える。

 今度は床へ右手をつき、机を置きたい場所と向きを思い浮かべた。手のひらを起点として床へ銀色の線が広がり、机は収納前と同じ形のまま現れた。

 恋は書類棚、空の薬品保管庫、折り畳み椅子を次々と収納した。すべてを収めても、頭の奥にある空間が狭くなる感覚はない。むしろ物を入れるほど、その暗闇に壁も天井も終わりもないことが、明確に理解できた。

「無限容量……これなら、どれほど物資を買っても保管場所に困らない。大型倉庫を借りる必要も、積み上げた箱を誰かに見つけられる心配もない」

 前世の恋は、備蓄を置く場所に苦労した。食料や燃料を部屋へ積み上げたため、拓斗に備蓄量を知られ、村田夫婦まで呼び込まれる結果になった。

 この空間なら、商品を受け取った瞬間に収納できる。何百箱の缶詰や水を買っても、外からは一つも見えない。

 容量を確認した恋は、次に時間の流れを調べることにした。

 林檎を半分に切り、バナナの皮を途中まで剥く。ポテトチップスの袋を開封し、熱いコーヒーの温度を測ると、表示は七十九・二度だった。

 置き時計の秒針が十二を指した瞬間、すべてを右手で触れて異空間へ収納する。

 一時間後、恋は品物を同じ机の上へ取り出した。

 置き時計の秒針は収納時と同じ位置で止まっており、現実空間へ現れた瞬間から再び動き始めた。コーヒーは七十九・二度のままで湯気を立て、氷は一滴も溶けていない。

 切った林檎の断面にも変色はなく、剥いたバナナは白い果肉を保っていた。ポテトチップスにも湿気はなく、指で摘むと軽い音を立てて砕ける。

「時間がゆっくり流れているのではなく、完全に停止している。温度も状態も変化しないなら、賞味期限を考える必要はないし、作りたての料理を何年後に取り出しても、その瞬間のまま食べられるということね」

 食品だけではない。薬の有効期限も、燃料の揮発も、乾電池の自然放電も防げる。必要な分だけを取り出し、使わない物は停止した時間の中へ保存しておけばよい。

 前世では缶詰一つ、水のボトル一本が減るたび、春まで持つのかと不安に襲われた。拓斗が一晩で何日分もの食料を食べれば、その分だけ自分の命が短くなったように感じ、眠れない夜を何度も過ごした。

 この力があれば、あの恐怖から解放される。

 けれど、便利な力にも必ず制約がある。思い込みだけで使い、命に関わる場面で失敗すれば、二度目の人生まで失うことになる。

 恋は地下室の隅で、小さな黒い虫が床を這っていることに気づいた。長く空き家だった建物へ入り込んだものらしい。

 コンビニの空き容器をかぶせ、厚紙を滑り込ませて虫を閉じ込める。その容器へ右手で触れ、中の虫ごと異空間へ収納した。

 十秒後、同じ場所へ取り出す。

 容器の底で、虫は脚を縮めたまま動かなかった。時間が止まっていただけなら、取り出した瞬間から再び動き始めるはずだが、容器を軽く揺らしても反応はない。

 念のため、恋は裏庭から小さな雑草を根と土ごと抜き、紙コップへ植えて収納した。数秒後に取り出すと、葉は急速に色を失い、茎も力なく垂れ下がった。

「生きたものは、この空間の中では生存できないのね。人間や動物を避難させるためには使えないし、間違っても自分の体を入れようと考えてはいけない」

 異空間は命を守る場所ではなく、生命を持たない物品だけを、停止した時間へ封じ込める倉庫なのだ。

 制約があると知った恋は落胆するより、むしろ冷静になった。生きた人間を収納できるなら、末世後に誰を救い、誰を見捨てるのかという問題に悩まされただろう。

 この空間へ入れられるのは物だけであり、それを誰のために使うかは、恋自身が決められる。

「前世の私は、誰かに助けを求められるたび、断る理由ではなく、助ける理由ばかり探していた。自分が我慢すれば丸く収まる、優しくしていればいつか分かってもらえると信じていた。でも、その結果、私は何もかも奪われて殺された」

 恋は右手の銀色の紋様を見つめ、静かに言葉を続けた。

「困っている人を見て笑うような人間になるつもりはない。けれど、私を利用し、奪い、殺した人間にまで情けをかけるつもりもないわ。今度は誰に冷たいと言われても、自分の命を守る。水城拓斗にも、村田夫婦にも、同じ絶望を必ず味わわせる」

 前世の心弱い白川恋は、零下七十度の小屋で死んだ。二度目の人生では、誰かの機嫌を取るために、自分の命を差し出したりはしない。

 能力の検証を終えると、恋はノートパソコンを開き、保有資産の整理へ取りかかった。

 自宅マンション、区分事務所、郊外の土地を売却した代金から、諸経費と税金の見込み額を差し引く。普通預金と定期預金、両親から相続した株式と投資信託も一覧へ加えた。

 株式と投資信託は、すべて売却する注文を出す。値上がりを待つ意味はない。三十日後には、株式市場そのものが機能しなくなるからだ。

 新居の契約費用を差し引き、証券類をすべて現金化した場合、恋が自由に使える資金は九千七百万円を超える。

 ほぼ一億円だった。

 普通に暮らしていれば、老後まで安心できるほどの金額である。しかし、世界が凍りつくと知っている恋にとって、銀行口座の数字は財産ではなかった。

 一億円を一億円のまま残しても、末世では一杯の温かいスープすら買えない。今のうちに食料、医薬品、燃料、防寒具、発電設備へ換えれば、それらは三十日後、百億円を積まれても手に入らない価値を持つ。

「全部使う。老後のための貯金も、将来の資産運用も必要ない。三十日後を生き延びられなければ、その先の人生なんて存在しないもの」

 恋は新しいファイルを作成し、バンカー改造、食料、飲料水、医薬品、燃料、防寒具、通信機器、発電設備と項目を分けた。

 これから一か月間で、購入できる物はすべて購入する。賞味期限も保管場所も気にせず、自分が生きるために必要な物を、異空間へ蓄え続けるのだ。

 備蓄計画の最初の項目を入力しようとしたとき、机の上に置いたスマートフォンが震えた。

 拓斗が別の番号から連絡してきたのかと身構えたが、画面に表示されたのは、旧マンションの隣人である村田の名前だった。

『白川さん、こんばんは。今日、不動産会社の人が何人も出入りしていたけど、何かあったのかな。妻も心配しているし、よかったら今夜、うちで夕食を食べない? ちょうど鍋を作るところだから、引っ越しの話でも仕事の悩みでも、何でも聞くよ。遠慮しないで連絡してくれれば、迎えに行くから』

 親切な隣人を装った、柔らかな文章だった。

 しかし恋は、零下七十度の小屋で最後の固形燃料を抱え、「若いんだから、俺たちより寒さに強いはずだ」と言い放った村田の顔を覚えている。床へ倒れていた恋を助けるどころか、食料も水も薬も奪い去った夫婦の姿を、忘れるはずがなかった。

 村田が心配しているのは、恋の身ではない。なぜ急に家を売ったのか、どこへ引っ越すのか、不動産を売っていくら手に入れたのか、それを探ろうとしているだけだった。

 拓斗に続き、前世で恋を殺した略奪者が、早くも金の匂いを嗅ぎつけて近づいてきた。

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    第54話 開いた扉の向こう側『白川恋だけが、あなた方に北辰を敵だと思わせています』 御厨の放送が途切れたあとも、食堂に集まった者たちは受信機を見つめ続けていた。 機械はすでに沈黙し、表示灯だけが一定の間隔で明滅している。それでも、誰かが口を開けば、自分の本音まで周囲へ知られてしまうような息苦しさが残っていた。 北辰統合区は、銃口ではなく選択肢を向けてきた。 六百人以上が暮らす大規模な共同体、暖房設備、医師、警備員、配給制度。武器を置いて北辰へ来れば、過去の所属を問わず受け入れるという。御厨が約束を守り、真壁たち六人を実際に返した直後だからこそ、その誘いには無視できない重みがあった。「北辰へ行きたいと言ったら、本当に止められないんですか」 食堂の後方から、若い男が尋ねた。 杉浦達也という元配送員だった。災害発生後、近隣の集合住宅から保護され、物資運搬や雪かきに加わってきたが、恋や評議会と親しいわけではない。これまで大きな不満を訴えたこともなかった男が、人々の間を抜け、机の前まで出てきた。「今すぐ出ていくと言っているわけじゃありません。ただ、北辰には六百人いるんですよね。ここより設備も人手も多い。御厨という人のやり方が気に入らないとしても、あちらのほうが生き残れる可能性が高いと考えるのは、間違っているんでしょうか」 誰かが小さく舌打ちした。「真壁さんたちを人質に取った連中だぞ。そんなところへ行くのか」「ここにいたって、十日以内に攻められるかもしれないんでしょう」 杉浦は声を荒らげなかったが、引き下がりもしなかった。「俺は兵士じゃない。白川さんに助けてもらったことには感謝していますし、仕事を割り振ってもらったことにも不満はありません。でも、北辰と戦うためにここへ来たわけではないんです。生きられる場所がほかにもあるなら、どちらを選ぶか考えたい。それを裏切りと言われたら、俺は何のために生き残ったのか分からなくなる」「北辰へ行けば、ここの内部情報を全部話させられる。お前一人の問題では済まないんだ」 別の男が椅子から立ち上

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