Se connecterマンション十二階の窓から見下ろすと、正面玄関の前に立つ男の姿は小さく見えた。それでも白川恋には、苛立つたびに片足を揺らす癖も、安物の上着のポケットへ片手を突っ込む仕草も、呼び出しボタンを何度も押しながら周囲を見回す卑しい横顔も、嫌というほど見覚えがあった。
水城拓斗で間違いなかった。
管理用アプリに表示された防犯カメラの映像では、拓斗が玄関前で管理人へ食い下がっていた。音声までは聞こえないが、身振りを見れば、恋の知り合いだから中へ入れろと要求しているのだろう。
間もなく、管理室から内線がかかってきた。
「白川様、正面玄関に水城拓斗様とおっしゃる男性が来られています。ご婚約者で、白川様から本日ここへ来るように言われたと話しているのですが、お通ししてよろしいでしょうか」
恋はスマートフォンを握る右手に力を込めた。銀色の紋様が皮膚の奥でかすかに光り、その輝きを見た瞬間、凍りついた小屋で拓斗に蹴られたときの痛みが蘇った。
「その人は婚約者ではありません。半年前に別れた元交際相手で、今日は会う約束もしていません。先ほどから電話を拒否しているのに、勝手に押しかけてきたんです」
「そうでしたか。水城様は、白川様が病気で寝込んでいるかもしれない、自分が部屋まで確かめなければ危険だとおっしゃっていますが」
「私なら問題ありません。それから、私が今日この部屋を退去したことも、転居先も、絶対に伝えないでください。帰らずに居座るようなら、警察へ通報して構いません」
「承知しました。ご本人の許可がない以上、建物内へはお通ししません。白川様は、正面で水城様と顔を合わせないよう、裏手の搬出口をお使いになりますか?」
「お願いします。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「迷惑をかけているのは白川様ではありませんよ。念のため、警備員を一人向かわせます」
電話を切ったあと、恋はもう一度窓の下を見た。
管理人から入館を拒否されたらしい拓斗は、両手を広げて何かを訴えている。恋を心配する善良な恋人を演じているつもりなのだろうが、ときおり管理人へ向ける険しい顔には、恋の身を案じる気配など欠片もなかった。
「婚約者ですって? 私が死ぬまで結婚を考えようともしなかったあなたが、部屋へ入り込むためなら、平然とそんな嘘までつくのね」
前世の拓斗は、恋の金と物資を奪うだけ奪い、最後には開け放たれた扉を閉めることさえ拒んだ。今すぐ下へ降り、その顔を正面から殴りつけたいほどの憎しみが、恋の胸を焼いている。
けれど、今はまだ復讐の時ではなかった。
今の拓斗は、前世で恋を殺した記憶を持っていない。罪を責めても理解されず、恋のほうが異常な女だと騒がれるだけだろう。ここで問題を起こして警察や会社に目をつけられれば、残された準備期間を無駄にしてしまう。
三十日後に世界が凍り始めれば、金も家も食料もない拓斗は、生き残る場所を求めて必ず恋のもとへ来る。そのときこそ、前世で味わった絶望を返してやればよい。
「今はあなたに構っている時間はないわ。せいぜい私のいなくなった部屋を見上げて、いつまでも待っていなさい」
恋はスーツケースを引き、警備員の案内で裏手の搬出口からマンションを出た。拓斗が正面玄関で騒いでいる間に迎えの車へ乗り込み、一度も振り返らずに新居へ向かう。
家を売った判断は正しかった。
旧宅を残していれば、拓斗は毎日のように押しかけ、隙を見つけて部屋へ入り込もうとしただろう。食品や防寒具を大量に買っていることを知られれば、前世と同じように、村田夫婦をはじめとする他人へ吹聴したに違いない。
拓斗が知っている住所を捨てたことで、少なくとも今は、備蓄計画を隠したまま進められる。
夕暮れを過ぎた頃、車は郊外にある新居へ到着した。
元個人医院の独立型複合住宅は、照明の落ちた状態で見ると、昼間以上に古びて見えた。高い塀の奥に建つ灰色の建物は華やかさとは無縁だったが、恋には都心の高級マンションよりも頼もしく感じられた。
鉄製の門を閉め、正面玄関、勝手口、地下搬入口のすべてに鍵をかける。備えつけの警備設備を作動させ、窓のカーテンを閉じてから、恋は各部屋を順番に見て回った。
誰もいないと分かっていても、前世で大勢の人間が扉を破ってなだれ込んできた記憶が、何度も背後を振り返らせる。室内へ響く自分の足音にさえ体が強張り、地下室の鉄扉を閉め終えたところで、ようやく長く息を吐くことができた。
「ここには誰も入れない。今度こそ、私のものは私が守る」
窓のない地下室には、古い事務机、書類棚、空の薬品保管庫が残されていた。分厚いコンクリート壁に囲まれているため、外部から中を覗かれる心配はない。
恋は事務机の上へ、途中のコンビニで購入した品物を並べた。林檎、バナナ、ポテトチップス、氷の入ったカップ、熱いコーヒー、乾電池式の置き時計、小型の温度計である。
右手を目の前へ持ち上げると、手のひらから手首に刻まれた銀色の紋様が、淡い光を放った。
目覚めた直後から、この右手には説明しがたい感覚がある。手のひらの奥に、どこまでも続く暗い空間が隠されており、意識を向ければ触れられるような、不思議な感覚だった。
「私と一緒に前世から戻ってきたのなら、何ができて、何ができないのか、今のうちにすべて確かめさせてもらうわ」
恋は林檎を右手で掴み、頭の中で収納したいと念じた。
その瞬間、林檎の輪郭が銀色の光に包まれ、音もなく手の中から消えた。
反射的に手のひらを裏返したものの、林檎は床へ落ちていない。目を閉じると、果ての見えない暗い空間が頭の奥へ浮かび上がり、その中に先ほどの林檎が、手にしていた角度のまま静止していることが分かった。
空間の中を歩き回って探しているわけではない。それでも、何をどこへ収納したのかを、恋は自然に把握できた。
林檎を取り出したいと考えながら右手を事務机へ置くと、銀色の光が指先から広がり、消えた林檎が机の上へ現れた。
「右手で触れることが、収納と取り出しの条件なのね」
左手で林檎を持ち、同じように念じても何も起こらない。しかし、左手で持った林檎へ右手の指先を触れさせると、林檎は再び異空間へ消えた。
恋は、地下室に残されていた事務机の側面へ右手を当てた。重量のある机も、収納を意識した途端に銀色の光へ包まれ、上に置かれていた品物だけを残して消える。
今度は床へ右手をつき、机を置きたい場所と向きを思い浮かべた。手のひらを起点として床へ銀色の線が広がり、机は収納前と同じ形のまま現れた。
恋は書類棚、空の薬品保管庫、折り畳み椅子を次々と収納した。すべてを収めても、頭の奥にある空間が狭くなる感覚はない。むしろ物を入れるほど、その暗闇に壁も天井も終わりもないことが、明確に理解できた。
「無限容量……これなら、どれほど物資を買っても保管場所に困らない。大型倉庫を借りる必要も、積み上げた箱を誰かに見つけられる心配もない」
前世の恋は、備蓄を置く場所に苦労した。食料や燃料を部屋へ積み上げたため、拓斗に備蓄量を知られ、村田夫婦まで呼び込まれる結果になった。
この空間なら、商品を受け取った瞬間に収納できる。何百箱の缶詰や水を買っても、外からは一つも見えない。
容量を確認した恋は、次に時間の流れを調べることにした。
林檎を半分に切り、バナナの皮を途中まで剥く。ポテトチップスの袋を開封し、熱いコーヒーの温度を測ると、表示は七十九・二度だった。
置き時計の秒針が十二を指した瞬間、すべてを右手で触れて異空間へ収納する。
一時間後、恋は品物を同じ机の上へ取り出した。
置き時計の秒針は収納時と同じ位置で止まっており、現実空間へ現れた瞬間から再び動き始めた。コーヒーは七十九・二度のままで湯気を立て、氷は一滴も溶けていない。
切った林檎の断面にも変色はなく、剥いたバナナは白い果肉を保っていた。ポテトチップスにも湿気はなく、指で摘むと軽い音を立てて砕ける。
「時間がゆっくり流れているのではなく、完全に停止している。温度も状態も変化しないなら、賞味期限を考える必要はないし、作りたての料理を何年後に取り出しても、その瞬間のまま食べられるということね」
食品だけではない。薬の有効期限も、燃料の揮発も、乾電池の自然放電も防げる。必要な分だけを取り出し、使わない物は停止した時間の中へ保存しておけばよい。
前世では缶詰一つ、水のボトル一本が減るたび、春まで持つのかと不安に襲われた。拓斗が一晩で何日分もの食料を食べれば、その分だけ自分の命が短くなったように感じ、眠れない夜を何度も過ごした。
この力があれば、あの恐怖から解放される。
けれど、便利な力にも必ず制約がある。思い込みだけで使い、命に関わる場面で失敗すれば、二度目の人生まで失うことになる。
恋は地下室の隅で、小さな黒い虫が床を這っていることに気づいた。長く空き家だった建物へ入り込んだものらしい。
コンビニの空き容器をかぶせ、厚紙を滑り込ませて虫を閉じ込める。その容器へ右手で触れ、中の虫ごと異空間へ収納した。
十秒後、同じ場所へ取り出す。
容器の底で、虫は脚を縮めたまま動かなかった。時間が止まっていただけなら、取り出した瞬間から再び動き始めるはずだが、容器を軽く揺らしても反応はない。
念のため、恋は裏庭から小さな雑草を根と土ごと抜き、紙コップへ植えて収納した。数秒後に取り出すと、葉は急速に色を失い、茎も力なく垂れ下がった。
「生きたものは、この空間の中では生存できないのね。人間や動物を避難させるためには使えないし、間違っても自分の体を入れようと考えてはいけない」
異空間は命を守る場所ではなく、生命を持たない物品だけを、停止した時間へ封じ込める倉庫なのだ。
制約があると知った恋は落胆するより、むしろ冷静になった。生きた人間を収納できるなら、末世後に誰を救い、誰を見捨てるのかという問題に悩まされただろう。
この空間へ入れられるのは物だけであり、それを誰のために使うかは、恋自身が決められる。
「前世の私は、誰かに助けを求められるたび、断る理由ではなく、助ける理由ばかり探していた。自分が我慢すれば丸く収まる、優しくしていればいつか分かってもらえると信じていた。でも、その結果、私は何もかも奪われて殺された」
恋は右手の銀色の紋様を見つめ、静かに言葉を続けた。
「困っている人を見て笑うような人間になるつもりはない。けれど、私を利用し、奪い、殺した人間にまで情けをかけるつもりもないわ。今度は誰に冷たいと言われても、自分の命を守る。水城拓斗にも、村田夫婦にも、同じ絶望を必ず味わわせる」
前世の心弱い白川恋は、零下七十度の小屋で死んだ。二度目の人生では、誰かの機嫌を取るために、自分の命を差し出したりはしない。
能力の検証を終えると、恋はノートパソコンを開き、保有資産の整理へ取りかかった。
自宅マンション、区分事務所、郊外の土地を売却した代金から、諸経費と税金の見込み額を差し引く。普通預金と定期預金、両親から相続した株式と投資信託も一覧へ加えた。
株式と投資信託は、すべて売却する注文を出す。値上がりを待つ意味はない。三十日後には、株式市場そのものが機能しなくなるからだ。
新居の契約費用を差し引き、証券類をすべて現金化した場合、恋が自由に使える資金は九千七百万円を超える。
ほぼ一億円だった。
普通に暮らしていれば、老後まで安心できるほどの金額である。しかし、世界が凍りつくと知っている恋にとって、銀行口座の数字は財産ではなかった。
一億円を一億円のまま残しても、末世では一杯の温かいスープすら買えない。今のうちに食料、医薬品、燃料、防寒具、発電設備へ換えれば、それらは三十日後、百億円を積まれても手に入らない価値を持つ。
「全部使う。老後のための貯金も、将来の資産運用も必要ない。三十日後を生き延びられなければ、その先の人生なんて存在しないもの」
恋は新しいファイルを作成し、バンカー改造、食料、飲料水、医薬品、燃料、防寒具、通信機器、発電設備と項目を分けた。
これから一か月間で、購入できる物はすべて購入する。賞味期限も保管場所も気にせず、自分が生きるために必要な物を、異空間へ蓄え続けるのだ。
備蓄計画の最初の項目を入力しようとしたとき、机の上に置いたスマートフォンが震えた。
拓斗が別の番号から連絡してきたのかと身構えたが、画面に表示されたのは、旧マンションの隣人である村田の名前だった。
『白川さん、こんばんは。今日、不動産会社の人が何人も出入りしていたけど、何かあったのかな。妻も心配しているし、よかったら今夜、うちで夕食を食べない? ちょうど鍋を作るところだから、引っ越しの話でも仕事の悩みでも、何でも聞くよ。遠慮しないで連絡してくれれば、迎えに行くから』
親切な隣人を装った、柔らかな文章だった。
しかし恋は、零下七十度の小屋で最後の固形燃料を抱え、「若いんだから、俺たちより寒さに強いはずだ」と言い放った村田の顔を覚えている。床へ倒れていた恋を助けるどころか、食料も水も薬も奪い去った夫婦の姿を、忘れるはずがなかった。
村田が心配しているのは、恋の身ではない。なぜ急に家を売ったのか、どこへ引っ越すのか、不動産を売っていくら手に入れたのか、それを探ろうとしているだけだった。
拓斗に続き、前世で恋を殺した略奪者が、早くも金の匂いを嗅ぎつけて近づいてきた。
第59話 隠された一万八千リットル第二便の最後尾を走るバスが鉄橋を渡り終えたのは、藤堂からの通信が途切れて十七分後だった。南側で待機していた作業員が覆工板へ固定したワイヤを外し、バスを保守道路へ誘導すると、車内から泣き声とも歓声ともつかない声が上がった。鉄橋の北側には、燃料を抜かれた補給車や資材運搬車が残されているが、二百三人は全員、新川を越えることができた。有馬は乗員の安否と車両の損傷を確認したあと、恋たちへ到着予定時刻を報告した。橋を渡るために予想以上の燃料を使ったものの、南部備蓄基地までは到達できる。途中で故障車が出た場合に備え、二台分の乗員をほかの車両へ分散できるよう、座席の割り振りも変更された。本来なら、そこで一度くらい安堵してもよかったはずだった。しかし北辰には、二百三十四人が残されている。そのうち百十二人だけが中央棟へ移され、ほかの百二十二人は東棟と作業区画へ置かれる予定だと、藤堂は告げていた。北辰の地下には、最低でも一万八千リットルの燃料が残っている。恋は相馬に公開回線を開かせる前に、避難所の評議を招集した。北辰へ要求を突きつけるだけなら簡単だが、救出した人間の行き先がなければ、御厨に現実を知らない理想論だと切り返される。食堂には、稲葉、富美子、橋本、山岸、相馬、柏木が集まり、真壁と小野寺も技術面の助言者として席についた。徹夜が続き、誰の顔にも疲労が浮かんでいる。それでも、北辰に置き去りにされる人数が伝えられると、眠気を訴える者はいなかった。「南部備蓄基地の受け入れ余力は、現状では三十人前後です」橋本は各拠点から届いた数字を白板へ書き込んだ。「第一便と第二便だけで三百九十三人になります。通路や資材庫まで居住区へ転用すれば、もう少し入れられますが、換気能力とトイレの処理能力を考えると、百人単位の追加は無理です。市立病院は、治療が必要な人と付き添いを合わせて四十人程度。倉庫拠点は暖房を一棟へ集中させれば三十人ほど受け入れられるそうです」「それでも、まだ二十人以上余りますね」稲葉は人数だけでなく、北辰から送られてきた家族構成を確認していた。空いて
第58話 凍土の上に道はない「第二便は、新川橋へ向かう手前の退避帯で停止してください。橋から最低でも五キロ離れ、後続車は間隔を詰めないで」恋が告げると、有馬は即座に各車両へ指示を流した。車列の現在地は崩落した橋から二十二キロ北方にあり、危険区域へ入る前に止められる。ただし、止まることが安全を意味するわけではなかった。車内の暖房を維持するにはエンジンを動かし続けなければならず、停車している間にも燃料は減っていく。北辰へ引き返せば、東棟の暖房主管が応急修理されたとはいえ、二百人を収容できる余裕はない。かといって南部備蓄基地へ向かうには、新川をどこかで越えなければならなかった。「旧県道を使った場合、燃料は足りますか」恋が橋本に尋ねると、彼は第二便の給油記録と車両ごとの残量を照合し、すぐに首を横に振った。「途中で道路が完全に開通していれば、到着時にほとんど空になる計算です。ただ、十年以上使われていない山道ですから、倒木か雪崩に一度でも阻まれれば終わります。燃料を積み替えて車両を減らせば余裕は出ますが、二百三人を乗せる座席が足りなくなる」「河川管理道はどうですか」「地図上では三十一キロの短縮になります。ただし、柏木さんが言ったように上流の地熱排水がある。川が凍って見えても、下側が空洞になっている場所へ大型バスが乗れば、全員まとめて沈みます」通信室の壁には、崩落した新川橋の映像が大きく映し出されていた。道路面を横切る亀裂の向こう側で、橋桁が片方の支承から外れ、数十センチ沈み込んでいる。第一便が通過する数分前に壊れていれば、百九十人を乗せた車両のどれかが巻き込まれていただろう。助かった事実は変わらない。それでも恋には、幸運という言葉で済ませる気になれなかった。偶然が少し違えば死んでいたということは、次も同じ賭けをしていい理由にはならない。「この辺りに、ほかの橋は本当にないんですか」「車が通れるものはありません。歩行者用の吊り橋はありますが、この温度で二百人を車外へ出し、患者を担架で運ぶのは現実的ではないでしょう」相馬が古い道路地図を拡大しながら答えた。その横で真壁は、現
第57話 六時間の例外「第二便を予定どおり待てない。六時間以内に、少なくともあと二百人を出す必要がある」有馬の声が途切れたあとも、通信機からは強い雑音が流れ続けていた。北辰統合区の東棟では暖房主管が破裂し、吹き出した温水が床へ広がった直後から凍り始めているという。応急的に区画を閉鎖したものの、行き場を失った住民を中央棟へ詰め込めば、二酸化炭素濃度の上昇と感染症の拡大を避けられない。しかも、外気温はすでに氷点下九十七度を下回っていた。柏木の予測では、八時間後に氷点下百五度へ達する。暖房主管の破裂がなくても、北辰が現在の設備だけで全区画を維持できる時間は短かった。恋は北辰から送られてきた施設図面を開き、東棟から中央棟へ続く配管を確認した。簡略化された図面でさえ、破損箇所の前後を閉じるだけでは複数の居住区が暖房を失うことが分かる。「有馬さん、東棟に残っている人数と、移動が難しい人の内訳を送ってください。それから、破損箇所の映像が必要です。燃料を出すだけで解決できる問題なのか、先に確認します」『時間を稼いでいる場合じゃない。燃料があれば第二便を出せる』「燃料を出しても、乗せられなかった人が凍えるなら意味がありません。避難と修理を同時に進めます。御厨さんに確認を取っている時間が惜しいなら、有馬さんの権限で映像を送ってください」無線の向こうで、有馬が誰かと言い争う声がした。はっきり聞き取れたのは、「許可を待っていたら人が死ぬ」という一言だけだった。数秒後、相馬の端末へ複数の映像ファイルが届いた。照明が落ちかけた廊下には、白い蒸気と細かな氷の粒が漂っている。天井近くを通る太い配管の継ぎ目が裂け、そこから噴き出した湯が壁と床を濡らしていた。作業員たちは防寒服の上に防水具を重ね、破損部分へ近づこうとしているが、視界が悪いうえ、床が滑るため思うように動けていない。映像を見た真壁は、固定された左手を胸元に寄せながら画面へ顔を近づけた。「破裂したのは主管そのものじゃない。増設した東棟へ湯を回すための分岐管だ。主管が裂けたなら、この程度の漏れでは済まない。北辰は居住区を広げたとき、古い配管へ無理に枝を足したんでし
第56話 十二万リットルの人質御厨の放送が終わっても、食堂に集まった者たちはすぐには口を開かなかった。壁際の石油ストーブが低く燃え、天井付近を通る温水管がときおり金属の収縮音を立てている。昨日までなら聞き流していたはずの小さな音が、今夜は燃料の残量を数える時計の針に思えた。橋本は放送の途中から書き始めていた数字を、白板の中央にもう一度大きく記した。百二十万ではない。十二万リットル。それでも、暖房用のポリタンクを頭に思い浮かべた者にとっては、現実味のない量だった。「念のために言っておきますが、これは灯油のポリタンクを六千個ほど並べた量です。重量だけで百トン近い。御厨が明日の夕方までに寄越せと言っているのは、倉庫の隅に置いてある予備を分けてくれという話ではありません」橋本は白板の数字を囲み、手袋を外さないままマーカーを置いた。物流会社にいた頃なら、これだけの燃料を動かすにはタンクローリーの確保から運行計画、受け入れ先の設備確認まで、複数の部署が何日もかけて調整したはずだった。ところが御厨は、そのすべてを恋の右手ひとつで飛び越えようとしている。「北辰の六百二十七人を移すために、本当にこれだけ必要なのか」真壁は折れた左手の人差し指を固定したまま、右手で資料をめくっていた。傷口の腫れが残る顔で細かい数字を追う姿は痛々しかったが、休めと言われて素直に寝ていられる男でもない。「向こうにいた間、車両置き場は何度か見ました。大型バス、除雪車、資材運搬車、装甲を追加した警備車両、それに暖房用の燃料槽がある。全住民を一度に運べる台数ではないから、往復を前提にしていたはずです。ただし、十二万リットル全部が住民輸送に必要かと聞かれれば、俺は違うと思う。移転後の拠点を維持する分と、警備車両を動かす分まで含んでいるでしょう」「だったら渡すべきじゃない」誰かが低い声で言うと、それまで黙っていた住民たちの間から、押し殺していた言葉が次々にこぼれた。「燃料を渡して、その車でここを襲われたらどうするんだ」「でも、あそこには子供だっているんでしょう。昨日ここを出た人たちもいる。自分で選んで出ていったんだから知ら
第55話 敵の車で命を運ぶ 北辰統合区の車列は、避難所へ近づかず、南へ進み続けた。 三台の大型車両は等間隔を保ち、先頭車が吹きだまりを崩し、後続車がその轍をなぞっている。車体後部に積まれた居住用の断熱箱からは弱い熱が漏れていたが、人間が乗っているほどの温度ではない。内部を凍結させないため、最低限の暖房だけを動かしているようだった。「この先で南へ向かえる幹線道路は二本あります。一つは山間部の発電所方面、もう一つは研究施設を経由して、旧食品工業団地へ抜ける道です」 相馬が地図へ二本の線を引いた。右足の凍傷は軽度だったが、真帆から外出を禁じられているため、椅子に座ったまま監視に加わっている。「いまの位置で進路を変えなければ、研究施設へ向かう道ですね」 恋は監視画面の車列と地図を見比べた。 研究施設には、榊原と皆川を含む生存者が残っている。研究用の種子は複数の拠点へ分散させたが、生きた培養組織や発芽試験中の種は施設内に残されていた。それらは右手の異空間へ入れられない。異空間の内部では時間が止まり、物品は劣化しないが、生きた細胞は生存できないからだ。 北辰の車列が、研究施設の人員と培養物を運ぶためのものなら、三台の断熱箱にも意味がある。「北辰は、次の寒波が来る前に研究施設を回収するつもりでしょう」 柏木は新しい気象予測を机へ置いた。「現在の外気温は零下九十二度ですが、寒気の本体はまだ北西にあります。最も早い予測では、三十六時間後から急降下が始まる。研究施設の外壁は厚いものの、暖房設備は一系統しか残っていません。零下百度を下回れば、故障していなくても出力が足りなくなる可能性があります」「連絡は取れますか」「研究施設との専用周波数を試します」 小野寺は右手の指先へ保温材を巻いたまま、通信卓へ座った。病院での作業による凍傷は軽かったものの、富美子と真帆から休むよう言われている。それでも、通信の設定だけはほかの者へ任せられないと医務室を抜け出し、後で必ず戻るという条件で監視室へ来ていた。 数回の呼びかけの後、雑音の中から榊原の声が返ってきた。
第54話 開いた扉の向こう側『白川恋だけが、あなた方に北辰を敵だと思わせています』 御厨の放送が途切れたあとも、食堂に集まった者たちは受信機を見つめ続けていた。 機械はすでに沈黙し、表示灯だけが一定の間隔で明滅している。それでも、誰かが口を開けば、自分の本音まで周囲へ知られてしまうような息苦しさが残っていた。 北辰統合区は、銃口ではなく選択肢を向けてきた。 六百人以上が暮らす大規模な共同体、暖房設備、医師、警備員、配給制度。武器を置いて北辰へ来れば、過去の所属を問わず受け入れるという。御厨が約束を守り、真壁たち六人を実際に返した直後だからこそ、その誘いには無視できない重みがあった。「北辰へ行きたいと言ったら、本当に止められないんですか」 食堂の後方から、若い男が尋ねた。 杉浦達也という元配送員だった。災害発生後、近隣の集合住宅から保護され、物資運搬や雪かきに加わってきたが、恋や評議会と親しいわけではない。これまで大きな不満を訴えたこともなかった男が、人々の間を抜け、机の前まで出てきた。「今すぐ出ていくと言っているわけじゃありません。ただ、北辰には六百人いるんですよね。ここより設備も人手も多い。御厨という人のやり方が気に入らないとしても、あちらのほうが生き残れる可能性が高いと考えるのは、間違っているんでしょうか」 誰かが小さく舌打ちした。「真壁さんたちを人質に取った連中だぞ。そんなところへ行くのか」「ここにいたって、十日以内に攻められるかもしれないんでしょう」 杉浦は声を荒らげなかったが、引き下がりもしなかった。「俺は兵士じゃない。白川さんに助けてもらったことには感謝していますし、仕事を割り振ってもらったことにも不満はありません。でも、北辰と戦うためにここへ来たわけではないんです。生きられる場所がほかにもあるなら、どちらを選ぶか考えたい。それを裏切りと言われたら、俺は何のために生き残ったのか分からなくなる」「北辰へ行けば、ここの内部情報を全部話させられる。お前一人の問題では済まないんだ」 別の男が椅子から立ち上